日本将棋連盟東葛支部 柏将棋センター

今週のつぶやき

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【番外編】「天国と地獄」

2022.12.07今週のつぶやき

「天国と地獄」
文:九段 前田祐司

「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し」と言います。この意味は、「世の中は、禍(わざわい )が福となったり、福が禍になったりして、縄をより合わせたように幸と不幸は表裏一体となっているも のである」ということ。“禍も福もなく、あるのはただ一つ、変転のみ”という哲学。「禍福は糾纏(き ゅうばく)の如し」とも言うそうな。 今回は昔の話ではなく、ごく最近のお話 それを、たまには“まともに”お伝えしたいと思います。

時は令和3年(2021年)9月。毎週・日曜日の午前10時からNHKのEテレで放送される番組、「将棋 フォーカス」の担当の方から、出演依頼がありました。私はすでに引退していますし、ヘボ棋士なのにナ ンで? と思いましたが、実は過去に一度だけ、NHK杯戦で活躍したことがあるンです。それは、「第 36回NHK杯戦」での優勝。今回の出演以来は、それを特集した番組を放送したいとのことでした。つい ては、私が住んでいる熊本市へ出向き、地元の「こども将棋教室」で指導している様子を取材したいとの リクエスト。
私が地元の「こども将棋教室」の主宰者から依頼され、月2回(第1・第3の土曜日)の指導を始めた のは平成23年(2011年)の5月からです。NHKさんの意図するところは、「Before=優勝した時の姿」 と「After =現在の姿」の対比と思います。ただ、世の中はコロナ禍の真っ只中。藤井聡太五冠がブーム を巻き起こしたころの一時期は、50人を超えた「こども将棋教室」の生徒数も激減したため、教室での私 の指導コーナーだけは令和2年(2020年)の4月から現在に至るまで、お休みの状況になっています。
そこで私は、「東京方面で取材していただくことはできませんか?」と提案しました。ただ、これには ちょっとした下心もあったのです。
連日、ニュースでは「コロナ感染を避けるため、無用の外出は避けましょう」と伝えています。私も、 外出するのは“買い物と病院に行く”だけの“巣ごもり状態”。とはいえ、気分転換を図りたいのは山々 で、私にとって今回の依頼は、まさに“渡りに船”というものでした(今さらですが、仕事のついでに東 京見物もできますからネ)。また、もう一つ、私が強く、東京方面に出向きたいと思ったのは、“昔馴染 み”に会えるからです。私は今、生まれ育った熊本の地元に住んでいますが、長年の東京暮らしから、お 酒を酌み交わす友人は近くにおりません。歳を取ってからの友人はなかなかできにくいもので、また、そ れなりに“用心深く”なり、お互いに警戒心が強くなるように感じています。特に、酒席が大好きな私に 取って苦手とするのは、“酒乱”の人。私にとって、酒乱の人ほど厄介なものはないのです。なにせ、温 厚そうに見えた御仁が突如、“殿! ご乱心を! おのおの方、お出会い召され~!”と変わるのですか らネェ~。手に負えません(68年生きている私ですが、一度は酒席をともにしないと、相手が酒乱かどう かを見分けることはできません)。その点、昔馴染みなら気心も分かっており、まったく心配はいらない のです。
前段が長くなりましたが、取材の話はトントン拍子にまとまり、取材日は3カ月後の12月15日(水)に 決定。私は3泊4日(12月15日~18日)の日程を組んで東京へと旅立ったのです。

航空券と宿泊場所の手配はスムーズに終わったものの、やはり気になるのはコロナのこと。その時期、 コロナの感染者数は高止まりしていたため、状況に改善が見られなければせっかくの機会をなくすことに なりそうです。しかし、天が味方したのか、11月末辺りから感染者数は劇的に減少していったのでありま した。

待ちに待った12月15日、飛行機の揺れもなく私は無事、東京に到着しました。目指すはイザ!、「本所 ・松坂町の吉良邸!」、ジャなかった、日本将棋連盟東葛支部「柏将棋センター」です。ここでNHKの 取材を受けることになっていたのです。
この「柏将棋センター」は、私の敬愛してやまない大先輩にして盟友の石田和雄九段が開設されている 名門の将棋道場で、多くの俊英プロ棋士を輩出しています。石田九段門下の男性棋士では、勝又清和七段 ・佐々木勇気七段・高見泰地七段・渡辺大夢六段・門倉啓太五段。女流棋士では、加藤結李愛初段・鎌田 美礼2級。なお、門下ではありませんが、この柏将棋センター出身のプロ棋士には三枚堂達也七段(内藤 國雄九段門下)もおります。また、この東葛支部は、10年以上にわたって、会員数200名以上を誇るマ ンモス支部でもあります。
石田九段は現役時代、強豪棋士として活躍し、引退後は前述の俊英棋士を育てた棋界の名伯楽。という ことで、ここ日本将棋連盟東葛支部「柏将棋センター」を「将棋フォーカス」の取材先としたのでありま した。

さて、取材の話は勝手ながら割愛し、それが終わるといよいよ“宴会タイム”のスタートです。場所は 石田先輩ご推奨のインド料理店。このお店はしばしば、先輩のエッセイ(柏将棋センターのHP)に登場 する味の名店でもあります。過去、私は一度もインド料理なるものを食べたことはありません。今回の上 京の一番の目的、それは先輩に会うのもさることながら、このインド料理店での酒席(先輩のご馳走)に あったのです!!
石田先輩が推奨するだけあって料理は美味、昔話にも花が咲きました。

石田:「前田君とはよく飲んだねェ~。あのころは楽しかった~」
前田:「本当ですネ~。お互い若く、元気いっぱい。楽しかったですヨ」
石田:「ところで、あのころはどんな話をしてたっけ?」
前田:「そうですね。先輩は飲んでいて機嫌がよくなると、いつもこのような話をされてました」
石田:「ほ~、どんな?」

以下は、当時の先輩が語った言葉です。
石田:「私の将棋の欠点は緻密すぎることです。相手は“こちらの心配する筋”にまったく気付いていな いのに、こちらはいつも考え過ぎて、自分から転んでしまう」
注)石田先輩の将棋の特徴は「大局観の良さと読みの深さ」にあります。あまりにもたくさんの指 し手が読めるため、ついつい“考え過ぎる”という現象が起きるのだと思われます。
石田:「私が考え過ぎずに、いい加減(=雑)にやっていれば、もっと勝てていたのにネ~。惜しいこと をしたモンだ。その点、前田君が羨ましいですヨ。あなたの将棋は、雑ですからネ~」
石田:「アマチュア上がりの人はホント、細かいことを気にしませんからネ。嗚呼!! 私の将棋は緻密す ぎる〇△□×〇△□×……」
注)今と違って当時は、「若い時から本格的にプロの修行をした人」と、「アマチュア名人戦の県 代表として活躍→その後、プロ入り」という二つのコースを辿っていました。もちろん、どち らも奨励会に入会してプロを目指すのは同じですが、前者は本格派の将棋、後者はケレン味た っぷりの将棋なのです。

先輩と同じセリフを他の棋士から聞けば腹が立つのですが、何事も“人によりけり”。先輩の口から聞 くと笑い話になるのが不思議です(先輩の人徳)。こうしていつも、先輩とのお酒の席は大いに盛り上が るのでありました。

このように、私の上京は15日のNHKの取材、および、石田先輩との宴会を皮切りに始まり、16・17日 はメンバーを替えての酒席で、楽しい時間は過ぎていったのです。But……。
今日は帰るという18日深夜(17日から18日にかけて)、突如、激痛で目が覚めるとは、お立ち会い!!
私は腰に持病があり、腰椎の4番目の骨がズレており、それが原因で時々、痛みが生じます。発症した 当時、お医者さん曰く、「本来であれば手術するのですが、年齢が年齢(62歳)でもあり、薬でごまかし ながらやっていくしかありませんネ~」とのことでした。
以来6年が経過。あらかじめ持ち歩いているいつもの薬を飲んだのですが……。
今回はいつもと様子が違い、どうにも痛みが治まりません。取材にカコつけて上京したケチな根性が禍 したかと、一瞬、反省しました。とはいえ、今日は飛行機に乗って熊本に帰らなければなりません。絶え 間ない痛みの中、私は這うようにしてどうにか帰路についたのでした。

旅に“土産”(みやげ)は付き物。私のセコい根性のせいか、その東京土産はありがたくないもので、 しかも、三つも持ち帰っていました。
① 新たに、腰椎の3番目の骨がズレているのが判明。 もともとズレていた腰椎の4番目の骨に、新たに3番目のズレが追加されたため、それが激痛の発生原 因になった。
② 左足の股関節の「不全骨折=骨にヒビが入った状態」(上記①にも追加された痛み
③ 右足の膝から下の部分の「糖尿病性壊疽(えそ)&蜂窩織炎(ほうかしきえん)」(後日、判明)。
どうしてこれらの病気を同時に患ったかというと、それはコロナ禍が出発点でした。
私は健康維持のため、週に2回、スポーツクラブで定期的に運動をしていました。そこにコロナ禍が始 まり、スポーツクラブでは感染予防のため、マスクを着用しての運動が義務付けられたのです。運動時は 呼吸が荒くなるにもかかわらず、呼吸の妨げになるマスク着用ではたまったものではありません。仕方な くスポーツクラブは令和2年(2020年)の4月に退会。以来、定期的な運動はしていません。当然ながら 運動不足になり、著しい体力低下を招く状態になっていたようです。
上京した15・16・17日は、石田先輩をはじめ“昔馴染み”に会える嬉しさで毎日がバラ色。普段はそれ ほど歩かないのに、この時ばかりは1日平均8,000歩以上を歩いていました(歩数は携帯電話のアプ リで分かります)。身体が悲鳴を上げるのも当然だったのです。
帰宅後、やっとの思いでお正月を迎えましたが、新年から私の仕事は“病院巡り”になり、腰椎の痛み は令和3年12月~令和4年6月まで、股関節の痛みは同じく12月~5月まで続いたのです。

さらに、悲しきかな災難はそれだけではありませんでした。前述した「③」が……。
今年の1月12日、総合病院・内分泌科で糖尿病の定期健診の日。いつもなら、採血→その結果を聞いて お医者さんの指導を受け→調剤薬局で薬をもらって終了、という流れなのですが、私には気になる症状が ありました。右足の膝の下から足の甲にかけて辺り一面、どす黒く変色していたのです。それを見た担当 の先生は一瞬、「ギョッ」とした顔に……。すぐに先生はどこかに電話を掛け、何やら話し始めました。
それが終わると、
「前田さん、今、予約を入れましたから、明日の朝一番でウチの形成外科を受診してください」 右足の異変と先生のただならぬ表情に、私はうなだれるしかありませんでした。トホホホホ~、どうな っちゃうの~?
翌13日、形成外科の先生は私の右足の状態を一瞥し、「採血に行ってください。それでは後ほど」と、 たったのひと言。内科と違い外科は荒っぽいと聞いていますが、私の担当はやさしそうな女性の先生。そ んなに手荒くは扱われないだろうと安心していたのですが、前述のひと言が妙に気になったのです。
案の定、採血の結果は思わしくありませんでした。そして、キツイひと言。
「前田さん、明日、直ぐに入院してください」
さすがにこれはこのひと言では終わらず、病気の説明があったのは言うまでもありません。正式な病名 は「右足糖尿病性壊疽(えそ)&蜂窩織炎(ほうかしきえん)」というものでした。
「明日の入院の前に、今から処置を行ないます」
処置のカ所は私の右足の親指。これが化膿して、膿がポタポタと流れ落ちている状態でした(昨日まで は、こんなになっていなかったのに……)。
先生は何やらスプーンのような物を手に取ります。
「痛いですよ~」
軽くそう言うと、先生は膿をこそげ落とし始めたのです。
今、“こそげ落とし”と表現しましたが、例えて説明すればこうです。料理で鍋をコゲ付かせたとしま しょう。その時、コゲたカ所をタワシでゴシゴシやって落とそうとしますよネ。まさしく、先生が私の足 の親指にやっているのはそういう作業なのです。痛いのなんの!! 一気に全身から生汗が噴き出し、涙も こぼれるし……。“悶絶する痛さ”というものを初めて身をもって体験することになったのです。
数分後、どうやら膿のこそげ落としは終わったようで、先生の手が止まりました。私は、“ハァ~、や っと終わった”と思ったのも束の間、「看護師さん、ハサミを取って」と先生の声。今度はそのハサミで 親指の患部の皮膚と肉を切り取り始めたのです。当然、「イデェ~!!!!!!」と私。
ここまですべて、麻酔をかけずにやっているンですよ! 信じられます? 外科的に見たら、私の症状 は軽く見えるようで、麻酔など使う必要はないのでしょうけど……。それにしても痛かった。外科の治療 は荒っぽいというのは本当なんですね~。

結局、入院は1月14日から18日までの4泊5日に。東京行きの中身とは“天国と地獄”の差がありまし た。その間、絶対安静で、1日4回・6時間おきに抗生剤の点滴治療を受けました。こうなった原因は、 上京時、毎日8,000歩以上も歩きまわったため靴擦れを起こし、わずかな擦り傷からバイ菌が入った からでした。それが、時の経過とともに私の体を巡ったようで、入院して絶対安静にしていなければ、敗 血症から多臓器不全になり、最後は“お陀仏”になると、先生の話でした。

一連の病気で体重は113㎏から93㎏になりました。体重が二桁になったのは26年ぶりのこと。お蔭で 血圧も、上が120~130台・下が60~80台の範囲へと低下。不幸中の幸い、人間万事塞翁が馬、禍福 は糾(あざな)える縄の如し……いろいろな思いが込み上げてきた出来事でした。
 
 

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