日本将棋連盟東葛支部 柏将棋センター

今週のつぶやき

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【番外編】「“2”億万長者(前編)」

2022.11.16今週のつぶやき

「“2”億万長者(前編)」
文: 九段 前田祐司

 

 時代の流れというのでしょうか、将棋の対局風景もずいぶんと変わってきました。現在は朝からシ~ンと静まり返り、咳(しわぶき=咳払い)一つ、聞こえません。まるで禅寺にいるような雰囲気です。禅は瞑想でもあり、「心を統一して、真理を追究する」修行。NHKテレビのドキュメンタリー番組で、福井県「永平寺」の修行風景を観たことがありますが、そこはひたすら、“静寂の世界”。間違っても、♪北~の~酒場通りには、長~い髪の女が似合~う♯ などという音は流れてきません。それと現在の対局室は同じなのです。

 また、対局が終わったあとに行なわれる感想戦(局後の検討)も、別室に場所を移して行なわれることが多くなりました。それは、対局中の他の対局者に対する気遣いからでしょうが……。昔は感想戦に対局中の棋士までもが多数、加わり、皆で局面を共有して勉強したもので、それが楽しかったのですがネェ~。現在の感想戦は、他の対局者には雑音以外の何ものでもないのかもしれません。

 まっ、善いのか悪いのか、現在の対局室は一日中、異常なピリピリ感に満ちているのです。

 今回は対局室が賑やかだったころの話。主人公は釼持松二(けんもち・しょうじ)九段(当時七段=故人)です。釼持先輩のお弟子さんには、加藤一二三九段、松本佳介(よしゆき)六段、橋本崇載(たかのり)八段、佐藤慎一五段がおります。

 時は平成2年(1990年)5月31日、日本が空前の好景気、つまりバブルに沸いていた時代で、このころの対局室ではときに奇妙な光景を目にしました。それは、対局中の棋士が耳にイヤホンを入れ、トランジスタ・ラジオの短波放送株式市況を聞きながら対局する、という光景。今では信じられませんが釼持先輩がその代表格でした。

 ちなみに、当時、棋士の3分の2は株式投資をやっていたとの話が残っています(私は興味がなく、やっていませんでしたので、人から聞いた話)。

 まれにこうした光景が出現する前の対局室は「競輪&酒場」の話が多く、午前中はほぼ、その話で盛り上がっていました。それが、時代の流れとともに「株式投資&不動産投資」へと移っていったのです。そして、前述のバブル経済の世の中になり、空前の好景気となって地価は異常な伸びを見せることになります。一節には、東京を走る山手線内の土地価格を合計すれば、「アメリカ全土が買える」と言われるほど、日本の土地価格は高騰したといいます。また、日経平均株価は平成元年(1989年)12月29日の大納会に、史上最高値の38,957円44銭を付け、経済アナリストの多くは、「来年度の株価は5万円になる」
と、まるで神が乗り移ったような言い方をする始末でした(専門家も浮かれていたのですネ)。

 さて、話は横道に逸れてしまいました。釼持先輩の話に戻しましょう。

 1図は、平成2年5月31日の「早指し選手権戦」予選の決勝で、勝った方が本戦に出場することになる将棋です。早指し戦の予選は1日に3局指しますので、多少、疲れもあるのですが、決勝まで進めばそんなことは言っていられません。ここで勝つか負けるかでは、自己満足度・プライドに天と地、月とスッポン、オセンにキャラメル(?)ほどの差が生じるからです(経済格差は、“気持ち”生じるといった程度のものですが……)。

 ▲先手・前田祐司七段vs△後手・釼持松二七段で、1図は126手目、釼持先輩が△9六歩と飛車を取ったところ。持ち時間は各10分。41手目からは、双方1手30秒の秒読みになっています。

1図:△9六歩まで
(1図は△9六歩まで)

 釼持先輩とはこれまで5回戦い、私の4勝1敗。対戦成績が示すとおり、私に分のある相手です。前述したように、早指し戦は本戦入りまでに予選を1日・3局戦いますが、当然、各対局の間には休憩の時間があります。

 この日の決勝が始まる前の休憩時間、私は釼持先輩から次のような話を持ち掛けられました。

釼持:「ゆうちゃん、対局が終わったら寿司を喰いに行こうよ。今日はいくらでもご馳走するよ!」
 昔の話ではありますが、このあとすぐに対局するという相手に話し掛けることは、当時でもあまりないこと。私は、予期もしなかった事態、また、その内容に驚き、即座に返事はできませんでした。
前田:「○△□×……??」
 ポカンとしていると、
釼持:「今日ネ、株で600万、儲かったんだよ。なにせオレ、株を2億円持っているから、儲かるときはアッという間なんだ」
 と、またもまったくもって予期せぬことを先輩は言ってきたのです。
 それを聞いて私は、
前田:「ハァ~!?」
 600万や2億には最初、驚いたものの、根は食い意地が張っているため、態度をコロッと変え、
前田:「ソッソッそれは先輩、喜ばしいことで。ぜ、ぜ、ぜひ、よろしくお願いします!!」
 手のひらを返しニコニコ顔で答えたのです。ところが、これは巧妙な“盤外戦術”でした。

 盤外戦術とは、対局相手の心理につけ込み、動揺させたり、不愉快な思いにさせて平常心を奪ったり混乱させたりするなどして、対局を有利に運ぼうという手段のこと。今では考えられないことですが、以前はけっこう頻繁に行なわれていました。釼持先輩が「寿司をおごるヨ」と持ち掛けてきた話も、そうした手段・戦術の一つなのです(この場合は、買収かもしれませんが……)。

 しかし、それが盤外戦術などと思っていない素直な私は、ルンルン気分で釼持先輩との対局に臨んだのです。すでに頭の中は“今晩は寿司だ!”という雑念・煩悩・妄念・欲望に支配されています。また、私には分のある相手という気の緩みもあったのでしょう。さらに、今日の3局の対局料を合計しても、お互いにたったの一桁万円。ところが、先輩はすでに三桁、600万円もの儲け。さぞやお腹いっぱいで、それほどやる気もないだろうと、私は甘い考えで対局に臨んだのでした。

 スタート時点からまったく集中力を欠いていたといえるわけですが、幸いにも将棋は私の手勝ちで終盤を迎えます。

再掲1図は△9六歩まで
(再掲1図は△9六歩まで)

 再掲1図は、双方の玉に詰めろが掛かっている状況で、つまり、手番の方が勝ちということになります。その手番は私にあり、詰め手順は再掲1図から、▲7四金△9五玉▲6八角△8六飛▲同角△同歩▲9三飛△9四銀▲9六金△同玉▲9四飛成△9五歩▲9七銀までの13手詰めが正解手順。

 ついでに途中の主な変化を記すと、
1)2手目、①△9五玉で△7四同金は、以下▲同成香で、
ア)△9四玉は、▲9三金△9五玉▲7三角成まで。
イ)△9五玉は、▲7三角成△9四玉▲8四馬まで。

2)同じく2手目、②△9五玉で△9四玉は、以下▲9三角成△同玉▲8三成香△9四玉▲8四成香△9五玉▲6八角△8六銀▲同金△同歩▲8七桂まで。

3)4手目、△8六飛の合駒で、
ア)△8六銀の合駒は、以下▲同角△同歩▲8四銀△9四玉▲9三角成△8五玉▲7六金右まで。
イ)△9四玉の逃げは、以下▲9三角成△同玉▲8三成香△9四玉▲8四金まで。

 なお、再掲1図で先手玉の詰み手順は、△9八飛▲同玉△9七銀▲8九玉△5九飛▲7八玉△6九銀▲7七玉△8六銀打▲7六玉△8七銀不成からの全19手詰めです。興味のある方は詰ませてみてください。

 ところが実戦は、再掲1図から▲7四成香△同金▲同歩△同玉と進んで2図になりました。

 これでも先手の勝ちに違いはありません。

2図は△7四同玉まで
(2図は△7四同玉まで)

 2図も後手玉は詰んでいます。手順は、▲7三金△6四玉▲7四金△5三玉▲6四角成△5二玉▲6三金△5一玉▲8四角△4一玉▲4二金(参考図)までの11手詰め。プロはもちろん、アマでもちょっと強い人なら間違いようのない簡単な詰みです。

参考図は▲4二金まで
(参考図は▲4二金まで)

 2図で私は、相手の玉を詰ますことだけを考えていました。相手の持ち駒は豊富ですから、自玉が危険であることは火を見るより明らか。“ここで相手玉を詰まさないと負け”ということは、肌で感覚的に察知していたからです。

 ところが、30秒将棋の中、20秒、1、2、3という秒読みに急(せ)かされ、詰みを発見できない私は▲7二桂成(3図)と詰めろを掛けるしかありませんでした。

3図は▲7二桂成まで
(3図は▲7二桂成まで)

 1手違いの最終盤、ここでひと息つくようではダメとしたもので、負けを覚悟した瞬間でもあります。

 そして、“しくじった!!”という後悔の念と、“どうしてこのお爺ちゃんに負けるの?”という嘆きが込み上げてきたのです。

 今思うに、私の頭は開局からしばらくの間、盤上の駒が、例えば飛車はトロに、角はウニに、そして、金はアワビというように見えていた気がします。そうした煩悩の支配がしばらく続き、その後に中盤から終盤に入ったため、知らず知らずのうちに脳味噌が目詰まりを起こしていたのでしょう。

 3図以下、△5八飛▲6八金打△9七銀▲7八玉△8九銀(投了図)とバタバタと進み、案の定、私の投了となりました。

 寿司ほど怖いものはありませんネェ~。エッ? 釼持先輩は、盤外戦術を仕掛けたのではないですって? 単に自慢話をしたいがために、本当に寿司をご馳走したかっただけ? 負けたのはアナタ自身のせいだ? ハイ、まったくそのとおり。返す言葉がござりませヌ。トホホホホ~。

投了図は△8九銀まで
(投了図は△8九銀まで)

 投了図からは、▲8九同玉△9九飛▲7八玉△6九銀▲7七玉△7九飛成▲7八合△同竜▲同金△同飛成まで。

 こうして対局は終わり、機嫌をさらに良くした先輩は、約束どおり私を寿司屋に連れて行ってくれたのです(続く)。

 

 

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